「日本社会の健康と私のノルディックウォーキング」

ここで少し抽象的なお話になってしまうのですが、”森のトットコ”がノルディックウォーキングをしながら何を感じ何を考えている(問題意識)について、少し皆様にお伝えしたいと思っています。もしこのページをご覧の方で、「自分はノルディックウォーキングがしたいだけなんだよ・・・その情報がほしいだけだ」と思っておられる方がいらしたら、このページは飛ばしていただいてもいっこうに差し支えありません。

このページでは、人間の「健康」と「社会」っていったいどうなっているのか?について自分の考えをひとつの意見として述べていきたいと思います。このお話は、私こと「森のトットコ」が実際に経験した体験の中で、迷ったり、学んだり、歩いたり、自分で感じたりしてきたことをまとめたものです。

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昔小さい頃学校で「心技体を鍛えよ」とよく先生に言われた記憶がおありの方も多いのではないでしょうか?その記憶をだどりながら、改めてその意味を味わってみると、人間は「心」と「体」を鍛えて自然や社会の中で生きるための「技」を磨いて初めて「健康に生きられる」と教えられていたのでしょう。ところが、日本人は高度経済成長以降、その”生きるための「技」”を”楽をするための「技」””儲けるための「技」”さらには”経済成長するための「技」”へ加速度的に変質させ、知らず知らずのうちに人間自身の「心」や「体」とは分離した領域で「技」だけをどんどん自律的に発展させてしまったのではないでしょうか?とうとう人間の「心」や「体」がついていけないレベルまで現在至ってしまった。人間の「体」の生活リズムに反する年中無休24時間スーパーの登場や、職場で最も重要な”信頼関係”に軋みを生み出し「心」のストレスが起こりやすい構造を本質的に抱えた労働者派遣法、都市化・核家族化の陰で進んだ孤独な若者や独居老人の増大など、昭和から平成時代に変質してきた社会慣習や制度・状況を思い起こせばイメージが沸きやすいと思います。日本社会が達成した経済発展が悪いといっている訳ではありません。経済発展と引き換えに、我々は、気づかない間に、人間として幸せな生活をおくるための最低限の生活スタイルを自ら構造的に変えてしまったのではないか・・・という視点です。
平成23年の正月に「こんなに一生懸命がんばって豊かになったのに何故われわれは幸せになれなかったのだろうか・・・・」という日本社会の「うめき声」のようなテーマの番組がありました。がんばったんだけど思いがけない結果になってしまった、後戻りもできないし将来の出口に繋がる方向性もまだ見えてこない・・・閉塞状態・・・・、残念ではありますが、人類を歴史的に突き放した言い方をすれば、人類(日本人)は自分自身がわからずに生き方の迷子になってしまった、「迷子になったホモサピエンス」とも言えるのではないでしょうか。突然、個人とは少し距離感のある、社会全体の大きな話にしてしまった感じがありますが、私こと”森の トットコ”は決して自分とはかけ離れた大きな社会の問題、他人事の問題とは思えません。なぜなら自分が「罹病」から「生き方の迷い」へと辿った道のりは、非常に敏感に日本社会の時代の流れを反映していた、知らず知らずの間に自分自身の身の上にも社会と同様の問題が起こっていた(個人の「心」「体」「技」にも非常に似通ったことが起こりまた似通った経緯を辿っていった)、ことに気づいたからです。

”森のトットコ”は最近まで”癒し”という言葉に惹かれていましたが、今は”蘇る”という言葉に関心が移っています。体力をつけて「健康」を取り戻そうと始めたノルディックウォーキングでしたが、自分の体が徐々に元気になってゆくのを目の当たりにしたときの”命の蘇りの自己効力感”やその過程で気づいた身近な身の回 りの自然の”美しさや豊かさ”に私は”幸せ”を感じたからかも知れません(”癒し”という言葉に含まれる”刹那性”のニュアンスに満足できなくなってきたのです)。朝日を浴びた早朝ノルディック ウォーキングは、脳内にセロトニンという神経伝達物質を分泌させる、適度な心地良い運動は身体をリラックスさせ日常生活の不安感を解消させる、人間の生命のリズムに反 した人工物ばかりで囲まれた都市環境や社会制度・習慣などは常時人間の交感神経を興奮させ神経系・内分泌系・免疫系を疲弊させる、など最近の研究でだんだんと解明されつつあるようです(詳しくは「森林医学Ⅰ・Ⅱ(朝倉書店)」などを参照してください)。ですが、私は医学者等の専門家ではありません。ただ、身近な自然の美しさや大きさに単純に心を動かされ、同時に身体を動かすこと(働くということもきっと含む・・・)の清々しさをみんなで分かち合うことができるノルディックウォーキング活動を通して、「理屈」ではなかなか到達できそうにない、たぶん「人間の摂理」「感覚」の力で、現代日本社会の歪みを感じ取れるのではないでしょうか。そのことにただ気づくことができれば、日常生活に健康のリズム取り戻すこと、失ってしまった「人間と自然」、「人間と人間」の絆を取り戻す契機を、そして「新たな社会を創ってゆくときの道標」を、我々は掴みはじめることができるのではないかと、考えています。

現代日本社会の現状を見て、私は、ミヒャエル・エンデの小説「モモ」の「時間泥棒」や、グリム童話の「ハーメルンの笛吹き男」にでてくる「ねずみ」の結末などを連想してしまいます。中国などを中心としたアジア各国は今まさに高度成長時代の幕開けであり、いづれかつて日本も辿った同じ道を歩む可能性が大いにあります。日本は今転換期の真っ只中ですが、現状に悲観せず先に見事にいわゆる本当の”循環型社会”に成熟してしまえばいいと思いませんか。日本社会が先に”素敵な蘇り方”をすればいい、それを実現するのは一人一人の”蘇り”であり、一人一人の力や思いをあわせて形にすること、そしてそのキッカケは、遠い世界にあるのではなく身近な一人一人の日常生活の気づきの中にある。
今後は、共感していただける方々や楽しくノルディックウォーキングを楽しみたいと思っておられる方々と力を合わせて、”社会が蘇るための道標”をもっと明確にしていきたいと思います。
最後に、私は、以上のような思いを持つに至った原点の地、「津市美杉森林セラピー基地」を軸として、三重県ならではの地、かつて「蘇りの地」と言われ古来から信仰を集めていた「紀伊山地巡礼の地」、世界遺産にも指定されていて風光明媚で日本文化溢れる「熊野古道」にも、「蘇りの道標」を求めて、ストックを両手に持って旅立ちたいと考えています。

「福来る門や 野山の笑顔」 小林一茶

(信濃町森林セラピー基地を散策しているとき道端で見つけた句碑から)

H23年1月30日
”森のトットコ”

三重ノルディックウォーキング倶楽部
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